
キリスト教にしてもイスラム教にしとも何にしても、神を唯一とする宗教は、天界に身分格差を持ち込むことを避けることで、ある神を崇めて別の神を蔑んだりするのを防いでいる。同時に、アイドルグループみたいに「僕はこの神のファン」だとか「私はこの神に萌え萌え〜」だとか、逆に「俺、この神のこういうところがイヤ」だとか「あの神は死んでよし」だとかいう事態になることも防いでいる。だから僕は唯一神の宗教を信じない。機能的で合理的で、リアルじゃないからだ。僕が自然で無理なくて現実的に実感できそうなのは、やはり色んなところに色んな神の宿る多神教だ。いや宗教として体系立ててなくてもいい。川の神や田んぼの神や山の神などを信じる民間伝承の類なら僕も飲み込めるだろう。さらに言えば、ふとした瞬間、たとえば森や林の木立や道端の草花や朝霧や鮮やかな夕焼けや冬の風の中の雪の匂いに足を止め、立ち尽くし、その一瞬だけに現実的であって、その後すぐに過ぎ去っていく何か神的なもの。それを感じるただの素朴な発想・感覚こそを僕は完全に信じる。「そこに神がいるのかもしれない」と思うこと。感じること。それなら僕は完全に信じる。そういうことって実際にある。誰だってあるだろう。そういう風に言葉にしていないかも知れないが、些細な何かに深く感動してほんの少しの間だけ、放心してしまうことは絶対に誰にでもあるはずだ。それもずっと昔から。
―――― 舞城王太郎著『バット男』より
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